2012年1月29日 (日)

KindleでSteve Jobsを読む

 講談社の「スティーブ・ジョブズ」上下2冊を最近マーケットプレイスで買った。本体1200円、送料250円が2冊で合計2900円。古本と言うものの、私には全然新本にしか見えない。よほど予約してでも読みたい本以外は古本で十分なのだ。それにしても、最近買った本やDVDの中古のきれいさを見ると、これを買った人ははじめから売る気で手袋でもして扱ったんじゃないかと思うほど。私のところへ来てあっという間に中古らしくなる。

 しかし、これからの読書は電子書籍でする時代だと思う。iPhoneやiPadには、iBooksというアプリがありながら、日本で出てくる電子書籍は発売元がそれぞれのリーダーを出してくる。それも紙媒体と同額で。そんな電子書籍なんて絶対に買う気が起こらない。どう考えても出版社が暴利を貪っている。ちなみに、AmazonのKindle e-bookは9.99ドル。1000円しない。Amazon USAのアカウントがないと買えないが作ればいい。簡単である。というわけで、iPhoneにKindle for iPhoneを入れて 'Steve Jobs' の原書を読む。翻訳を読んでいると「ん?」と気になるところが度々出てきて原文を確認したくなる。訳のアラ探しで原書を読むのは馬鹿馬鹿しいことで、そういうことのために原書を読んでいるのではない。むしろ、基本は原書を読んでいるのであって、どうしてもわからないと訳を読んで助けてもらっているのである。

Kindle for iPhone で 'Steve Jobs' を読む。楽です。なんてったって重たい本を持たなくて済む。

 2/2追記
  今日、Amazon-Kindleの請求がカード利用明細でわかった。
  なんと、785円!
  日本の電子書籍の価格設定は一体何だ!

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2011年12月17日 (土)

麒麟の翼

読み出したばかりだし、映画の封切り前だし、そもそも推理もの?だから、ネタバラシではない。最近ずっと注目している電子書籍の話。

この本はまだ文庫化されていないので、非常に重たい。電子書籍化されればいいのにと思っていたら、奥付の前ページに「著者は本書の自炊代行業者によるデジタル化を認めておりません。」と書かれているのに気づいた。自分で自炊するのはいいのかと思ったが、そこまでする気もない。でも重い。本を重さで「計る」ようになったのは歳をとって腕力が衰えてきたからか。

自分の書いた文章を何度も読み返すなんてほとんどしないが、電子ブックリーダーで試しに読んでみようと、PDFやEPUBにして読んでみたりしている。まだ自炊はしたことはない。青空文庫をiPhoneやiPadやMacBook Airで読む。こんなことはPalmやLibrettoを持ち歩いていた時からやっていたのだが、ここへきてお金を払って電子書籍を買うという気持ちが高まってきている。障害は出版社の売り方だけ。紙の本にかかる費用から電子化で浮く費用を抜くだけで、十分にペイするはずなのに紙の本と同じ価格設定は納得いかない。安くしたって、やっぱり紙の本が欲しいという人は紙の本を買うだろうから出版社はそこからだけの収益でやっていく努力をすべきなのだ。そして電子書籍はこれまで紙の本を売っていた書店が、魅力的な電子書籍を作って売ればいいのだ。

私はもう基本的に紙の本はいらない。東野圭吾が恐れているのは、海賊版電子書籍の横行なのだろう。きっと自分の本がKindleやiPadで読まれて嫌だとは思っていないだろう。

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2010年7月18日 (日)

ジョブズのプレゼンテーション

 久しぶりに本を買った。先週発売されたばかりのスティーブ・ジョブズのプレゼンの極意を書いた本。あまりにもわかりきったことが書かれているに違いないと思いつつ、なぜか読みたくなって買った。3連休という時間の余裕のせかいもしれないが、同い年の男が仕掛ける魔法の種明かしを文字で読みたかった。実に予想どおりの本だったが、おもしろい。彼のKeynotesと呼ばれるプレゼンテーションはほとんど見ているし、そこで展開される彼の手口もわかっているのに読みたくなる。それはこの本が持っている力ではなく、スティーブ・ジョブズという男が持っている力のせいなのだと思う。

 発表前様々な噂が飛び交い(今回のiPhone4のように事前にバレてしまう事故もあるが)、大して欲しいと思っていない商品が彼のプレゼンを聞いた直後から欲しくてたまらなくなる。アップル信者でなくてもiPadやiPhoneはみんな飛びついた。それは彼が発信した商品に振り掛けた魔法の粉のせいだと思う。

 この本は「君もジョブズと同じようなプレゼンができるようになる」と謳うハウツーものの様相を呈しているが実はこの本を読んで誰もがうまいプレゼンテーションができるようになるわけがない。ちょっとくらいのヒントは得られるかもしれないが、決して私たちはジョブズにはなれない。そんな当たり前のことをわかっていながら読んでいる私はアップル教徒というよりジョブズ教徒なんだと思う。

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2009年1月17日 (土)

邦題のまずしさ

 映画の邦題があまりにもひどすぎて作品の価値を貶めている、という例はいくらでもあるのだが、本の題名でも同じことが言える。スティーブ・ジョブズの経営手腕について書かれた『ジョブズはなぜ天才集団を作れたか』(講談社)はアップル・フリーク(ジョブズ・フリーク)であっても、ちょっと読むのに躊躇してしまうタイトルだ。原題は"The Apple Way"である。なんでこれが「天才集団」という言葉に結びつくのか、内容を読んでも明らかにはならない。Windows派は目もくれないだろうし、Apple教徒であっても、面映ゆくなって、思わず手を引っ込めてしまうだろう。

 去年の11月に訳出されて、最近売れ出しているもう一人のスティーブの聞き書き自伝もものすごいタイトルで、読みたくてたまらないのに、Amazonのボタンを押そうと思うと、タイトルが気になって、買う気が失せていた。『アップルを創った怪物』(ダイアモンド社)というのである。副題の「もう一人の創業者、ウォズニアック自伝」はいいし、「怪物」という表現が合っているかどうかはともかくも、ジョブズとは全く違う意味で「怪物的」人物である点に関しては、まさかその通りなのだが、どうしてもこれも面映ゆいタイトルである。まさかそういう原題じゃなかろうと思ってみても、時間的、地理的な制約を背負った私のような者にとって、Amazonで購入するしかないので(つまり手に取って裏表紙のクレジットを見ることができないのである)、購入を差し控えてしまうのだ。夕べ東京に戻って大書店の入り口に平積みされたこの本を手に取り、すぐにクレジットを見て、感心しつつ思わず笑ってしまった。そしてあらためて表紙を見るとどでかくなった老ウォズニアックの写真の隅に、その体型をアイコンのように小さくかたどったグレーの影の中に小さく原題が記されていた。それは実に上手いタイトルで、「怪物」と名乗る邦題の矮小さを嘲笑うような気の利いたタイトルであった。

 さて何ていうタイトルだと思う? それはAmazonのこの本の表紙写真を拡大して見ればわかるはず。それを見ても別にどうとも感じない人はたぶんアップル製品を使っていない人か、iPodをWindowsで使っている人だろう。そういう人はiPodなんか捨ててSonyかなんかのmp3プレーヤを使った方がいい。

これが原書。装丁も訳本より品が良いし、タイトルが…


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2008年4月20日 (日)

暇つぶし青空文庫

 かつてPalmを愛用していたころに、その日読みたい作品を「青空文庫」からダウンロードし、TXTファイルをPalm用のテキストファイル(MEDOCという拡張子だったか)に変換して、Palmに入れて持ち歩いた。読むためのブラウザも幾種類か出ていて、縦書きで読めたりもした気がする。漱石の三部作も「こころ」も「猫」もPalmで読み直したものだった。もしかしたらPalm用の青空文庫があったような気もする。まだ10年もたっていないのにすっかり忘れてしまった。

 今でも青空文庫は健在か、と探してみたら、健在だった。登録されている作者も作品もふえた。ボランティアで著作権が切れた小説などを電子ファイル化してくれているのだが、当時は現在進行中だった書き換え作業がずいぶん進んだ。藤村の、私が嫌いな作品「新生」も、外国の作家の作品も加わっている。そして「青空文庫」そのもののモバイル版「暇つぶし青空文庫」というのまで別サイトでできていた。これなら携帯電話でもインターネット接続すれば読める。iPod touchでもインターネットがつながる環境にあれば読める。インターネット環境の差を考えると携帯電話の方が勝ちだろうが、自由に文字を大きくしたり小さくしたりできる使い勝手を考えるとiPod touchの方が勝っている。

 本の装丁やら文字の大きさ、行間などにこだわりのある私でも、旅先などで不意に読みたくなりそうな小説をPalmに入れておくと安心感があった。慣れてくると文庫本の頁をめくるのではなく、画面をスクロールしながら読む読書の新しいあり方にも適応してきて、本では気づかなかった部分まで見えてくる気すらする。本棚から分厚い三巻本の梶井基次郎全集を下ろしてくるより、iPod touchですぐに「桜の樹の下には」を読む方がずっと楽になっている自分に気づく。決して暇つぶしに終わりそうにない、引き込まれ方を小さな電子機器相手にしている。鉛筆を片手に線を引いたり書き込んだりはできないけれど新しい読書のスタイルではある。できればテキストファイルにして読み終わるまでiPod touchに置いておければ一番いいのだが…
 正規のやり方で…

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2008年2月 2日 (土)

「他者の苦痛へのまなざし」

 最近、写真関連のハウツー本しか読んでなかったが、いずれもじっくり読むようなものではなかったから(ただし「デジタル写真の学校」(キット タケナガ著)は再読するつもりだけれど)もう見終えてしまった。同じ写真関連の本なら、全く違う角度で書かれた本が読みたいと思って、スーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」をAmazonに注文した。これまで、数冊読んだソンタグの本は山の書棚に入れてあって、どれも何回も読み直している。古い「写真論」を書いてから、死を直前にして書かれた本書まで、彼女のスタンスはおそらく変わってはいないと思う。読んでからでないと何とも言えないが、「他者の苦痛」を自らの苦痛のようにとらえることは普通の人間にはできないだろう。情報がビジュアル化してあふれかえる今日、悲惨さや苦痛の表現が私たち見る者の心を鈍化させている。しかし、時代をさかのぼっても戦争や災害の映像が本当に私たちに、私たち自身の苦痛としてとらえられてきたかというとそうではなかったろうと思う。

 平日にじっくり本を読む暇がなく、せいぜい読み捨てに近い本を拾い読みするくらいなのだが、そろそろ窒息しかけてきている東京暮らしから逃げ出して、本を読むために来週こそは山へ帰ろうと思う。

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2007年3月 8日 (木)

『資本論』を読み直す

 Amazonから新しい筑摩のマルクスコレクションIV、V『資本論第一巻』(上・下)が届いた。マルクスを読み直すべきだという自説を実行するために、古い岩波文庫を探す手間を省いて、新訳の『資本論』を求めたのだ。実はまだ読み始めていない。お洒落な、でも汚れやすそうな装丁の本をみて、にやにやしている。もはや共産主義的革命を起こすために読もうとしているわけではない(あたりまえだけど)。しかし、彼が分析した資本主義のゆがみは今如実にあらわれているし、この世界にはそれを拡大する方向性だけしかみえない。

 危うい方向性ばかりが目立つこの国の政治もそうだが、アメリカを中心とした世界規模の狂った動きを見つめ直すには必要な勉強だと思う。ただし、私の中で見つめ直すということしかできないのだが。

 政治の悪さは民度に比例する。

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2007年2月 9日 (金)

処分したい本

いつか読むだろう、いつか必要になって調べるだろう。そう思って買い集めた全集や叢書や辞典類が山ほどあって、そろそろ始末したくなってきている。

大学時代から買い集めた(これは必要があって読んだけれど)専門の本は、希少本も含め、家の建て替えのときにみんな捨てた。つまりは今M乃が第一志望にしている大学に私は7年間通ったのだが、その間にした勉強はすべて、本を捨てたときに忘れることにした。だから今残っている本はその前後から買い続けた今でもそれなりに気持ちのひかれる本なのだがすべて専門外の本だ。なのに今ではもう読まないだろうと背表紙を見ながら思う。この1年間に読んだ本は数冊にすぎず、その数冊を数回ずつ読んだ。たぶんこういう読書の仕方をこれからも続けていくのだろうと思うと、毎月数冊予約出版で買い、箱から出されることもなく積み上げられていった本たちの大半は絶対今後も触らないだろうと思う。

古本屋を呼んで買い取らせればそれなりになりそうな気もするがそれも面倒でする気がない。家の建て替えといういいチャンスに捨てられずに残してしまった本が今、古くなった家を傾けるくらいの重みで書棚に積み上げられている。これだけのお金が今あったらなあ、と思うが、買った当時はお金の問題じゃなかった。生きる上で必要だと思ったのだ。でも生きる上で必要な本はもう何冊もなく、それはたぶんそろそろ固定化してきている。薄べったい文庫本10冊分くらいで残りの人生を楽しめると今は思っている。

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2007年2月 5日 (月)

漱石全集

 私が今持っている漱石全集は20世紀の終わりに刊行された何度目かわからないが、中型(普通の本よりやや小さめの版)の全28巻別巻1の29冊本で、それまで持っていた菊判の大きい全集は誰かにあげたか処分したかした。本当は新書版の漱石全集が欲しかったが、この版が出た直後に出はじめたと思う。大型のときは読むのも大変だったが、字が大きくて良かったと今は思う。新書版は義父の閉められたきりの書庫に眠っているので、いずれは私がもらうつもりでいる。
 
 初めて漱石全集を買った(親に買ってもらった)のは高校のときで、岩波ではなく、筑摩の全集類聚という不完全な全集だった。その全集類聚で今も芥川と太宰を持っている。太宰の全集は当時からそれが定番で、ほぼ完全なものだったが、その後、同じ筑摩からもっと大きな、そしてもっと完全な全集が出ている。そこには義父も一文を載せているのだが、今さら太宰は読まないので欲しくない。芥川は岩波が完全版を出しておりこれも義父の蔵書にあるがこれも特に欲しくない。

 いま、あらためて漱石全集を紐解きながら(本当に届いてから初めて開く巻が多い)、漱石は文豪だったと思う。娘らは漱石をたぶん読んだことがない。受験生のM乃は漱石を古典だという。その読まず嫌いに私は歯がゆさを感じるのだがこれも時代の流れのせいだろう。でも、本当に文学が好きになれば漱石は読みたくなるはず、と思っている。漱石は100年後に通用する小説を書くと常に言っていたが、まさに現在読んでもそこに躍動する人間の心根は新しく、読む者の琴線を振るわせると思う。ろくな評論が漱石に関して書かれないのを現代の文学者の怠慢、もしくは偏見と思う。漱石は古典だからといって「猫」ですら読もうとしない娘らと大差ない浅読みの漱石学者たちの駄文を越えるエッセーが岡山で今書かれつつあると思うとうれしくなる。私の能力と、現在の興味の方向を考えると、漱石も誰ももはや研究しきれないがいつかクンデラについて書きたいと思っている。すぐに気が変わる人間だから今そう思っているだけではあるのだけれど、この前の週末に「不滅」を読了した。何回読んだかわからないが、何度読んでもその構成力のすごさには何度でも感動させられる。漱石とクンデラにまったく共通点はないのだけれど、異次元とも思える両者の間を行ったり来たりし、時折、平安にまで出張してくるのが本読みの楽しみだ。

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2006年5月 7日 (日)

いつのことだったか、もう忘れてしまった……

Youhengenji どなたかがこの橋本治『窯変 源氏物語』にトラックバックをつけてくれた。今は文庫本にもなり手軽になっているようだが1991年から1993年にかけて毎月届くのを楽しみにしていたこの洒落た本はそれまでの谷崎の源氏や円地文子の源氏に比べ革命的に感じた。おおくぼひさこのモノクロームの写真を配した装丁も各帖ごと頭辞に添えられたフランス語も橋本の新しい視点からの訳出も何もかもが新しかった。そして今読み返しはじめてみて感じるのも当時と変わらぬ新鮮さだ。同時に、というよりははじめとおわりに古語辞典を引きながら読む原典に新たな発見をする。山へはとりあえず山岸徳平校注の岩波文庫版6冊を持っていったが、帰宅後岩波の新古典文学大系の源氏物語5巻(他に索引1巻)を書棚から抜き出した。
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 これらの本を文学の研究者でも愛好家でもないのにいつなぜ買い集めたか、もう忘れてしまった…… とにかくこの歳になって昔買って良く読みもしなかった本はもう読むこともあるまいと思っていたのにまた読もうと思い出した。訳本はともかく原典は外国語を読むようなもの。とくに中古文は難しい。主語を省略するから尊敬語をマスターしないと誰の言動かわからない(その点、文庫版は小各個で主語がつけられているので最初は楽だがしだいに鬱陶しくなる。でかくて重い大系版を下ろしてきたのは本文中に注がふられていないからだ)。次に難しいのは語意が現代語と反対の意味を持つ言葉が多いことだ。これらはわかったつもりになる語句をいちいち辞典にあたり、語源を知ることで納得がいく。日本語の複雑さにふりまわされるのは、平安朝の書物を読む醍醐味のひとつだ。これを訳本ですらすらと読んでいくと大事な言葉の重みを看過することになる。

 橋本の訳は意訳というか、光源氏存命中の「幻」の巻までは(正確には原典には題のみで本文を欠く「雲隠」まで)光源氏のモノローグの形をとっている。訳文から得た知識や辞書や図書館で見つけた注釈本で知った知識、それと訳文への不満なども含め、ノートを取り始めた。ぴょからプレゼントされたMOLESKINEのVAN GOGH MUSEUM版のオレンジ色が『橋本・窯変源氏のためのノート』第1冊目となった。
Gogh_orange 絹地の表紙のあでやかなノートにAvocadoのインクと鉛筆でメモをとっている。それは研究のためのノートではないから、体裁は考慮されず、思いつくがままのメモである。たとえば原典の言葉と橋本の訳語の対照であったり、広辞苑から抜き出した平安朝の有職故実であったり、橋本版腰巻きのキャッチコピーであったり、著者の言葉であったりする。91年から3年かけて「俗塵の狂気をよそに」信州に籠もって書き上げたという8500枚の大作を読みながら、平安朝に思いをはせると同時に90年代の日本を思い、記憶をたどったりもしてノートに書きおいている。そこから21世紀の今を見つめ直したりもする。こうして光源氏が出家する直前の年齢に達した私が紫式部と橋本治を介して光源氏に挑戦していく。素人としてこれだけの本に囲まれてなお、サイデンステッカー訳の英訳本も注文してしまった。仕事を続けている間にとうてい終わる読書計画ではないから、もう退職後のことも考えている。退職後はすぐにも山に籠もろう。幸い身近に金田一晴彦記念図書館もあり、注釈本や語彙の研究書には事欠かないはず。この勉強はさらにスタンダールやプルーストへつながっていくだろう。老後の愉しみというにはまだ早いけれど読書の一つの道が敷かれた。


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