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2006年12月29日 (金)

東京から眺める山の様子

Licam2 これまでの年末年始なら夕べ仕事を終えて帰ってきたらそそくさと山へ向かっていたはずが、今年は義父の世話で大晦日から新年の二日まで身動きがとれない。休み初日の今日はぐったりとしてしまって寝て過ごす。少し前に起きて私の部屋から見える東京の夕焼けを見ていて、ふと山の様子が知りたくなった。貼り付けておきながら自分でも滅多に見なくなっているメインページの「山の様子」をクリックし、甲斐大泉駅前のライブカメラの画像をみる。北向きのカメラは八ヶ岳を映している。前三ツはいつものようによく見えている。右奥の真っ白な赤岳には雲がかかっている。

Licam  もう一枚は南向きのカメラで泉ラインを映している。よく見ると泉ラインの入り口にあるいずみ荘の屋根が半分白くなっている。きっとこの数日、もしかしたら夕べあたり降った雪だろう。道路は黒いから雪はもう消えている。私たちが行っている間雪が降らず、この冬はまだ雪を見ていないのだが、こうやってすぐ消える雪は何度か降ったのだろう。

 私の家は駅からさらに250mほど山を登るので今頃は庭も白くなっているだろう。割合すっぱりとあきらめていたので、山での年越しができないのはそれほど残念ではないけれど、こうして便利なものができて、リアルタイムの状況を東京から眺めることができると、普段は滅多にしないのに、凍てつく寒さの中を歩いてみたいなと思ったりする。

 一時帰宅させる老人は今入っている施設に来年の春までしか入っていられない。そのあとを今の場所を決める前から探していたが、夕べ次に入ることのできる施設からOKが出た。義母の方はすでに終の棲家を見つけ、そこで安全に暮らしている。こうして2人の老人たちは別々の場所で人生の終末を、別に話をしても面白くもないような赤の他人とともに過ごしていく。周囲にいる人々ももはや普通の元気な老人じゃないのだから話しすら通じないかもしれない。たしかに暖かく設備は整い、たくさんの介護士があれこれ手伝いをしてくれている。一時帰宅するFERMATAが生まれ育った古い家よりはずっと快適な生活なはず。6人もの子宝に恵まれても、私たちも含め、一緒に暮らして面倒を見る者はいない。核家族化の一番進んだ時代の老人とその子たちの世代。それぞれが自分たちの家を持ち、家を維持し、子どもらを育てるために夫婦共働きをするのが当然になっている世代。
 複雑な思いで、人間の一生について考える。医療の進歩は延命を容易にした。動かない手足や狂いはじめた脳を抱えていてもちゃんと生理的に生存させる。子らの世代もすでに初老の域に入りだし、自分たちの体のあちこちにもう若くはない徴をちゃんと刻みだしている。定年をそろそろ実感しだした世代の職場の連中は再就職の道を具体的なあてもないまま話している。定年を指折り数えて待っている私は定年後まで働きたくないとそばで黙って聞いている。けれど夫婦して山籠もりしても山での生活がいつまでできるのだろう。今だから本物の老人になった自分たちが森の木を少しずつ集めてきてはストーブを焚き、贅沢なものは食べずに、穏やかにほっかりと過ごそうなどと考えているが、具合が悪くなったら病院はどうするか、雪が降ったら町へどうやって降りていくか、そのころ今のように車を飛ばして、畳の待合室が残っている「村」の診療所やマーケットへばんばん出かけられるとは限らない。晩年のPAUではないけれど玄関やデッキに上っていくための階段すら上れないかもしれない。

 考えても仕方のないことは考えず、年末年始、FERMATAの手料理でかつて文学について話した義父の相手をしてやろう。テレビ好きの老人だから昔のように紅白にはりつくかもしれないが、もし、テレビを見ることが嫌いになっていたら、彼も若いころ好きだったフルトヴェングラーの第九を一緒に聴こう。山は逃げないけれど、この老人はそう遠くない将来去っていくのだから。

 FERMATAの兄弟がこのブログを読んだらきっと縁起でもないことを書くと怒るだろう。みんなクリスチャンを自認している連中が「縁起を担ぐ」というのも実におかしいな、その連中が家が一番近いからとうちに老人の世話を任せて…と私は屈折した思いで書いている。まあ誰も読みはしないから書いているわけだが本当は親に対する温度差が違う私の思いを読んでみて欲しいとも思っている。何かが起こらないともはや動こうとしない私たち夫婦も含めた義兄弟姉妹にとって本当は何もないときの老人との時間のほうが大切なのだと思っている。

 書き出したころの夕焼けはとうに沈んでしまい、急に冷気が部屋に立ちこめだした…

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コメント

老人の喜ぶ顔はむしろ哀しかった。この年末年始のこともすぐさま忘れてしまうのだろうが、少なくとも昔と同じような顔で、昔と同じようによく食べ、よく話した。

一人暮らしは当然無理だが、誰か一緒に暮らせる人がいれば普通の暮らしをしていくことは可能なレベル。暖かい日には手を添える心構えをしながら一緒に歩けばひとりで歩いて散歩もできるだろう。そうやって晩年を過ごすことが、過ごさせてあげることがわれわれにはできない。本当にできないのだろうか。自分たちの生活をそのように変革すれば不可能じゃないはずなのだが、かつての大家族制度の中で老人を支えた次の世代が自分自身をどうにももてあます時代。もしかしたら、老人を支えているはずの次の世代は老人に支えられて生きてきたのだろう。そういう支えを失った、私たちの世代でもある。

投稿: EUGENE | 2007年1月 2日 (火) 07:56

親が弱って支えが必要になる頃 子供である私がもうすっかり人の手が借りたい年に成っています。結局 孫がお祖父さんを背負いましょうと言って背負うと聞きました。
一人の家族や一人の人が何もかも引き受けるのではなく。皆で もしできれば大家族で、順番に逝く事が出来たら幸せですね。家族が少なければ大家族を作る事が出来たらいいです。
もし その人に多少のアビリティがあるなら自分で庭くらいは歩けるとか。椅子に座って小鳥や花を眺められて うとうとと午後を過ごす事が出来るとか。残されたアビリティがあるなら奪えないと思います。
岬で朝晩座っているお祖父さんの後ろ姿を見ました。夜の戸張が深い青、黄色、橙色、淡いピンクで下りて来ていました。あぁ ここがこのお祖父さんの席なんだなと思いました。老人に成っても自分の席が在る そんな生き方が出来たらいいなと思います。
拝見して 私も何度も考えさせられました。

投稿: takako | 2007年1月 7日 (日) 13:27

わたしの感じていることは人間として間違った方向にあると自分でも思っています。なにしろ、人間の寿命が延びていくことを否定する考えなんですから。自分がああいう老後は楽しくないだろうな、いやだなと感じるのはまったく私の勝手です。私だけが時期が来たらちゃんと死ねばよいことで、他の生き続けようと願う人々をとやかく言うことはできないのだな、と思います。

ただ、今、介護する側にあって、空想するのは、介護されている老人たちよりも先に介護している側がくたばってしまいそうだ、ということです。目の見えなくなった老婆がいつも来てくれている娘の名前を呼び続けるのですが、娘はもはやいない、という空想です。ありえなくない気がしてくるほど、仕事と介護を続ける妻や義妹たちの毎日は過酷になっています。

takakoさんのブログでいじめについてのご意見を読みました。まったく正論でそのとおりなのですが、正しいことが通用しない人間のこころを最近若者だけにかぎらず、大人にも感じます。学校の教員はビクビクして仕事をしています。いじめを受けた子の親から責められ、教育委員会から責められ、教育の自由度はどんどん減少しています。昔の教員と今の教員と資質の差がそれほど大きいとは思えません。資質に差があるとしたら、それは教員だけの問題ではなく、人間すべてに共通するもののような気がします。偉そうな発言をする人が現場に立ってどれだけの成果を上げられるか、私には疑問です。戦争をしてはいけない、人が人を傷つけあってもいけない、そのことを今の世界の人間たちはどこまで深く考えているのでしょうか。

そういう私に何の対案もないのです。どうしたらよいのかわからないのです。いじめも、会社でのパワハラも国同士の争いも。いけないことだと思いはしても、じゃあどうするか、わからないのです。だから逃避しているのです。

投稿: EUGENE | 2007年1月 9日 (火) 20:14

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