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2006年11月19日 (日)

子規の目

Momiji06 手入れしていない庭に生えている紅葉が鮮やかでない朱に染まった。日当たりの問題か、寒すぎるのか、栄養がいきとどいていないのか、毎年こんなものだ。手前にもう1本かたちのいい紅葉の木があるがこれは色づかない間に葉が枯れて、細い枝ばかりが恥ずかしげに赤くなっている。紅葉の向こうにパウが眠っている。

 短い週末、金曜から土曜日に日付が変わったばかりの深夜に山に到着。車をとめる空間に枯れた木の枝がのびていて車のボディがキーッと音をたてる。5万キロ以上走るといくら高価な車でも全然気にならなくなる。いつもの癖なのだが、車から降りて空を見上げる。木々の生えていない空にようやくオリオンが判別できるくらいたくさん星が出ている。最近痛くてよく動かせない首をさらに真上にあげると、葉を落とした木の枝枝の間に星が瞬き、人工の電飾ツリーをあちこちで見せられる都会から離れてようやく何万光年をかけて届けられた光の競演を見る。この夜は到着後の一杯もやらず、寒い体をさらに寒いベッドの中に押し込んで寝た。

 翌朝は7時前に目が覚め、カーテンを開けるとのぼって間もない太陽が裸の木々の間に見えている。これまでよく見えなかった秩父の山が木の隙間に青く見える。富士はもう霞んで部屋からは見えない。部屋の温度は0℃、外は−5℃。思いの外寒くないが、それでも火なしではいられず、ストーヴを焚く。1時間もしないうちにストーヴにはりつけてある温度計が350℃のDanger Zoneに入った。Naoさんのコメントどおりの三冊のうち、読み出していた「墨汁一滴」を開く。20世紀の初めからこの随筆は始まる。すでに病床から起きあがることもできない子規は枕元に寒暖計と橙と、橙と同じ大きさの地球儀をおく。そして20世紀末の地球儀を思う。その20世紀もとうに終わってしまっている。日本の領土は縮小し、紫に塗られた朝鮮半島から狙われている。敵の大将は正常な人とも思えないが、狙われる日本も自業自得という感じがする。
 病床苦痛に堪えずうめいている者の周囲に2、3の人が寄り、「人の耳ばかり見ているとよっぽど変だよ」などと言って笑っている。子規曰く、「健やかなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。」
 漢字についていろいろと考えている。字画のあやまりや、「四」の字の違いを縷々書き付けている。「賣」という字の「四」と、「讀」という字の「四」は別の字であることを初めて知った。そういえば音が違う。前者は「ばい」だが後者は「ど(と)く」だ。試しにフォントを拡大してみるとわかるが、この二つちゃんと違う。「冒涜」は新体字になってしまっており、旧字体はコンピュータでは出てこないが「讀」のつくりと同じだろう。漢和辞典を調べてみようと思ったが山にはなかった。金田一春彦蔵書を見に行けばすぐに解決するのにと思いながら、山を下る気がせずにそのままになった。

 Naoさん、私が3冊読む前に自称活字中毒患者のNaoさんなら読み終えてしまいますよ。私はうつらうつらの合間に数頁ずつ、書き込みをしたりしながらの長旅ですから… Naoさんという名前、確かにNaoさんだからまあいいのだけれど、Nauさんだったらよかったのにね。フランス語読みすれば「のうさん」と懐かしい読み方ができる。aoはドイツ語読みだと「あう」だけど「のう」にはならない。うーん、eugeneはぜったいパスポートでも認めるべきだ。昔掛け合ったけれどだめだった。そういえばキャッシュカードもクレジットカードもeugeneを認めてくれない。私としてはもう絶対YUJIじゃないんだけれど…

Otiba06_1 今日は昼前から雨。朝ぶち込んだ薪が燃え尽きそうになり、足すのをやめて、村の露天風呂へ行く。森の中の道は黄色にのびている。これは全て針のような唐松の落ち葉。万年筆のインクを夏は緑、冬は茶(セピア)にしようと思っていたことがある。けれど、冬の木々は小学生が描く絵のように茶色ではなく、実は鼠色なんだと今日ふと思った…

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コメント

 子規について考えるとき私の脳裏を離れないのはキューブラー・ロスのことだ。彼女の書いた2冊の翻訳本『死ぬ瞬間(正・続)』のこと。彼女はドキュメンタリーというか、研究というか、いずれにせよ客観的な立場で死に直面した人にインタビューを繰り返し、この2冊の本を書いた。彼女は死を知らされた人の精神段階を、否認と孤立の第一段階、怒りの第二段階、取引きの第三段階、抑鬱の第四段階、受容の第五段階の5つに分けた。それは真摯な探求であったが彼女は自分自身の死をまともに迎えられなかった。
 子規を読み出してまだ間もないのに結論めいたことは書けないが、実は彼女の段階分けは多くの場合表面的であって、子規はつねにこの全ての段階を行ったり来たりしているようにも見えるし、全く違う次元に達しているようにも見える。書くという行為自体が自己を客観視する方法なのだが、なかなかそうも言っていられないのが死と性の問題である。いずれも自己を失うことが究極にあるからである。そういう状態にあって子規は自分と自分を取り巻く周囲の観察を努めて行っている。枕辺の金魚を見て、痛いは痛いが綺麗は綺麗じゃといったのは両者を対比したのではなく、二つのことを同時に表現したのである。病の痛みはあくまで痛い。しかし、金魚はあくまで綺麗なのである。痛みがあったから綺麗さが増すなどというロマンはない。痛いという現実と美しいという現実が二つあり、この二つを子規は同時に感得できたのである。下手な対位法はここには全く通用しない。二つの独立した音が独立した旋律を奏でている事態に子規はそのまま反応している。そこが子規のすごいところなのだ。
 人の死がどうであろうとそんなことは自分にとってなんでもない。自分の死をどう迎えるかは自分ですらわからない。キューブラー・ロスがした試みを認めないわけではないが、いくつかのサンプルから抽出できるものなど胡散臭い。結論を出す必要などないのだ。そういう学問が、あるいは書物が必要なのではない。大事なのは、子規が2年の間に書いた書画がそこにあるという事実だ。彼の歌がそこにあるということだ。それ以外に何を読みとればいいのだろう。

投稿: EUGENE | 2006年11月21日 (火) 23:49

私はキューブラー・ロスも、原著ではなく、山崎章郎先生の本で知りました。
その影響で、終末期医療の本を結構読んだのですが、余命宣告された癌患者が、夕焼けを見てなんと美しいのだと泣く、雪や生物が美しいと泣く、といった事例をいくつか読みました。
それを本当の意味で実感することはできず、ただ、歳を取るごとに、目に見えるものに対して幾分か感傷的になるのは、やはり一歩一歩、死が近づいているというか、残り時間を気にし始めたせいなのかもしれない、と思っています。
ゆっくり、子規を読んでみます。

というような気持ちになったところに、交通事故のように西原理恵子「パーマネント野ばら」を読み始めてしまいました。
まだ途中ですが、生命力、を感じています。

投稿: Nao | 2006年11月22日 (水) 12:30

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