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2006年5月29日 (月)

老人と娘

 最悪の事態を凌いだ老父は妻が入る養護老人施設に隣接した同系列の病院にいる。左側の神経がやられているのか左瞼は垂れ下がり、夕食を食べていた。昼の間に書いたノートの、娘らは昔より余計読みにくくなったという字を見ると、本の書き込みや小さな付箋に記した昔の文字と変わらぬ読みにくいが文字の基本はしっかり身についている癖字がその日の経過を記している。それを解読しながら娘、といっても中年後期、初老に近い娘がいろいろと尋ねる。トイレはナースを呼んでから行ったのか、とか、リハビリの時、手加減してくれと言わなかったか、等々。
 「そこに書いてあるのはインチキだ」と老人は軽く言う。かつて老母が言ったのと同じ口調、同じ台詞で娘は小言を言う。食後、歯を磨かせようと娘は執拗に迫る。老父は「わかった」と言いながら、磨く気配は見せない。「おれが帰るときに着ていく服はどこだ」と老父は話を逸らす。娘は医者の許可がないと帰れない、帰っていいと許可を得ても家で面倒を見る者がいないと帰れない、仮にすぐに許可が出てもパパが倒れてから家はあのままだから掃除や庭の草取りをしなくてはならない、などと帰宅が不可能なことを遠回しに言い募る。

 急に不機嫌になった老父は声を荒げ、すぐに沈み込む。

 歯なんか磨かなくたっていいじゃないか。家には、近いうちに帰ろうね、と言ってやればいいじゃないか。インチキな生活を送っていると老人がわかっている以上、インチキな返答を待っているだけなんじゃないか。正当な答えをし続けても、インチキな余生を疎ましく思いながらのろのろと歩き続けなければならない老人の気持ちを考えないのか。

 我が家に転送依頼をかけたので、老父宛の様々な郵便物が届く。その中に、予約購読の申し込みをしていた「プラトン全集第15巻」が届いていた。本代は私が払ってその本は私が読むことにした。

 「定義集」
  12 老年。時の経過によって生ずる生命あるものの衰え。

  31 無苦。苦痛に陥らない〔心の〕状態。

  34 自由。人生を〔自ら〕指導すること。万事にわたっての自律。

 151 恐怖。禍いを予感して魂がうろたえること。

 181 救助。今ある害悪、もしくは生まれつつある害悪を防ぐこと。

 184 保護すること。被害のないようにすること。

       (向坂 寛訳・岩波書店『プラトン全集第15巻』)
  
 

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コメント

読んだ事がある本を もう一度読みたく成る本があります。読みかえして以前には感じなかった事が感じられたり 見えて来るものがあったりします。活字が愛おしく成る本やっぱりいいです。


嘘というより 優しさからだったり 想いやリからだったり 希望や祈りの言葉そのものだったりするのでしょうね。

投稿: takako | 2006年6月 6日 (火) 11:42

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